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オスティア・アンティカの見所、料金、営業時間、アクセス・行き方等の観光情報

オスティア・アンティカ
Ostia Antica

2016/12/13 更新

Ostia Antica

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概要

古代ローマの物流拠点の都市

Ostia Antica

オスティア・アンティカは、古代ローマ時代のティベリ川の河口に位置するかつえ存在した都市であり、現在は遺跡として有名な観光名所である。

ローマより30キロメートル南に位置する。建設当初は河口に位置する都市であったが、河の堆積作用により現在は河口より2キロメートルほど内陸にある。
名前「オスティア(Ostia)」の「os」というのは河口という意味で「tia」というのはティベリ川を意味する。
もともと、4代目のローマの王アンカス・マルシウスによって作られたと言われている。

フレスコやモザイクなどの壁画などの遺跡の保存状態が非常に良いことで有名である。
また、空港に近いこともあり、イタリアの観光地のなかでも特に多くの観光客が訪れる。
壮大な遺跡からは当時の生活風景がうかがえ、街中を散策し歴史を肌で感じることができる。

見どころ

①遺跡を散策しながら歴史を感じる

Ostia Antica

はじめは、軍事的拠点であり商業的敵拠点でもあった。初めての集落の形成は4世紀にまで遡る。
ローマの対岸に居住する、エトルシア人の都市ヴェイルに対抗する形で建設された。
また、河口付近は非常に重要な位置だったので、 その領土を守るため、要塞を建てたと言われる。

ローマの初の植民地であり、且つ自律的な政治が行われており、かなりの独立性が確保されていた。
主にローマに麦などの食料を提供する流通の拠点でもあった。大きい倉庫なども発掘されており、その形跡が伺える。また食物の保存するために重要な塩の生産もしていた。

紀元前一世紀に市壁が作られ、50ヘクタールの面積が囲まれていた。また内部は5つのエリアに分けられ、外部との連絡のために3つの門が作られたとされる。

当初は軍事拠点としての色合いが強かったが、ローマの領土が拡大するに連れ、徐々に軍事的な拠点としての機能は薄れ、商業的な拠点となっていった。
一世紀ADになると都市化が推進され様々な施設が建設された。
シアターや宗教施設やフォーラムなども作られた。 

人口が増加していするにつれ、新しい居住施設も作られた。
主に中流から下流の住民は、「インスラ」と呼ばれる多層のアパートに住んでいた。
一方で上流階級の住民は一軒家に暮らしていた。
二世紀の後半には最大5万人が住んでいたとおもわれる 。
また、皇帝の住む別荘も作られた。

しかし、3世紀AD後半のコンスタンチン帝の時代には、次第、人々が他の都市に移住していき、衰退していってしまった。原因の一つとしてはティベリ河からの土砂の堆積により、港湾が埋め立てられて不便になったからとも言われている。また、マラリアなどの病気が蔓延したことや、海賊などによって強奪などが行われ治安が悪くなったことも要因である。

以上のような歴史を、思いながら散策するのも面白いかもしれない。

②発掘された古代ローマ時代の様々な施設

Ostia Antica

初の発掘作業は1801年から1805年に、教皇パイアスの命令によって行われた。
またその後、1938年から1942にかけてムッソリーニ時代に大規模な発掘が行われた。
戦後になってからは、考古学者の発掘の練習場としても使われた。

遺跡では様々な施設が見ることができる。
門の付近にはネプチューンの銭湯があり、中の壁にはモザイクの壁画があり10メートルから15メートル程度の大きさだ。
また、紀元前 12年に作られた半円のシアターも建設されており、3500人が収容できる規模だ。
そしてカフェのような建造物もあり、そこにはカウンターらしき場所も見られ、そこで何か食べていたりしていたと考えられている。

当時のカレッジにも行くことができ、舞台にも歩いて登ることができる。フォーラムでは様々な催し物が行われたと思われる。
そこでは宗教で 神に生贄を捧げたりしていた 。
また、女性は隣の洗濯場などで働いていた。
隣には公衆の銭湯などがあり そこの洗濯物を洗っていた。また、その温泉の隣には競技場などもあり、そこが大衆の娯楽であった。

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