2015年1月7日、フランスパリに本社を持つ風刺週刊誌シャルリーエブドがアルジェリア系イスラム移民らによって襲撃され、警官や編集長を含む計12人が殺害された。シャルリーエブド社がイスラム教の指導者ムハンマドを題材にした風刺やイスラム過激派を挑発する風刺を度々掲載し、イスラム過激派を刺激したことがこの事件の背景にあると言われる。事件の直後、世界各国でこのテロ行為への批判と報道・表現の自由の考えに基づいたシャルリーエブド擁護の声が上がった。だがその一方で、ローマ法王が「表現の自由には限度がある」と表明する等、報道・表現の自由どこまで認められるべきなのかという論争が巻き起こった。

2016年8月にイタリア中部で大地震が発生し、多数の死者を出した際、シャルリーエブド社が犠牲者をラザニアにたとえる風刺画を掲載したことで、この報道・表現の自由についての論争は再燃した。在イタリア仏大使館が風刺画について「フランスの立場を代表するものではない」と釈明する事態にまで発展し、2015年の襲撃事件の際にはシャルリーエブド擁護の声が多かったイタリアだが、一転して「恥を知れ」という批判が巻き起こった。

どこまでが報道・表現の自由で認められる範囲なのか、渦中のシャルリーエブド社を擁するフランスの人々はどのように思っているのか。フランス現地在住ライターがリポートする。

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表現をどのように受け取るかもその人の自由

(現地在住ライター 竹内真里
表現の自由(alexskopje / Shutterstock.com)
シャルリーエブドがイタリアで8月に起きた地震の犠牲者をラザニアにたとえ、同国内はもちろんのこと、SNS上でも怒りや批判の声が上がった。日本もたびたび風刺の対象となっている。近年ではテレビ番組の司会を務めるローラン・ルキエの福島の原発に関連付けた発言(サッカーの川島選手の腕が4本ある合成写真とともに)は記憶にあるだろう。シャルリーエブド、ローラン・ルキエ当人はこれまでどおりの活動を続けている。批判の対象となった表現について彼らなりの説明、言い訳はしているが謝罪はしていない。

確かにフランスではダイレクトに物を言うことが悪いこととはされていない。日常でフランス人を観察していると、何か思い浮かんだらその瞬間に口や顔に出さずにはいられないといった様子だ。言葉を飲み込んだり、こんなことを言ったらこの人はどう感じるだろうか、などと思慮はせず、自分が言いたいことをはっきり全部言ってスッキリ、という感じなのだ。

ところで長期滞在の移民はフランス共和国について市民講座の受講が義務なのだが、その中に国が掲げる「自由、平等、友愛」の項目がある。表現の自由については「人は恐れることなく考えや意見を表現する権利があるが、同時に法に違反する内容でないか注意すること」とある(法で禁じているのは中傷、名誉毀損、人種差別、反ユダヤ主義、ユダヤ人虐殺見直し論)。講師は話の流れからシャルリーエブドの例を挙げた。イスラム教の預言者ムハンマドを侮辱する画を掲載し、複数のイスラム教徒団体から訴えを起こされたものの、すべて勝訴しているというので驚いた。受講者からは「フランス人も今私たちが受けているこの講座の内容を学んだ経験があるんですか? 彼らは何度でも学び直すべき」と発言があった。

では一般的なフランス人は表現の自由をどのように捉えているのか。パリ在住の30代から40代の男女7人に話を聞いた。
・「シャルリーエブド紙は宣伝のため敢えて論争を引き起こすああいった画を描くようになった。皮肉にもテロで注目を浴びて世に知られるようになった」
・「確かにショッキングな表現もあるけれど彼らには表現の自由がある。そこそこおとなしい表現なんて、平凡すぎてつまらない。誰かを傷つけることを恐れて誰も何も言えなくなるほうが重大問題だ」
・「表現の自由を乱用している。誰かを傷つけて良いわけはない」
・「30年前と比べたらバカげた法律のおかげで表現の自由度は低くなっていて堅苦しい」
・「シャルリーエブド=フランスだと思わないでほしい」
・「私たちは臆せず表現する権利があるが、あまりに下品なものは見聞きしないようにしている」
・「自由が尊重される私たちの国を誇りに思う。表現をどう受け取るかもその人の自由」

各自がはっきりと意見を述べ、かなり熱の入った考えを語ってくれた人も居り、議論はヒートアップ。この取材がまさに表現の自由の場であった。